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活動報告

大学生と百々ケ峰ハイキング 活動報告

日時 令和3年11月23日(火・祝)に開催しました。
参加者は子供さん11名 大学生6名 長良川文化フォーラム名の計19名でした。

9時に受付を行い、まず、子どもたちの緊張をほぐすために、軽いレクリエーションとしてグループ作りゲームと、ブタとオオカミゲームを行いました。今回のハイキングは3~4人のグループ単位で行動するため、それぞれのグループの中で親睦を深めてもらいました。

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10時にハイキングを開始。グループで「赤い実を見つける」や「落ち葉でじゃんけんをする」といったミッションに挑みながら頂上を目指しました。また、下山後の工作で使う木の枝や落ち葉を拾いながら通称三田洞弘法ルートを歩き、三田洞展望で軽い休憩、山頂下のスペースで昼食をとった後、頂上へ登って記念写真を撮りました。頂上からの景色は見事で、鮮やかに紅葉する山々と市内を一望することができました。復路は車管理用道路を通りました。

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下山後は各々が拾ってきたものを組み合わせて動物をつくりました。果実を目に、松ぼっくりの鱗片を鼻にするなど、子どもたちが持つ創造力を引き出すことが出来たと思います。

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16時に解散、スケジュールが押してしまったが、負傷者を出すこともなく大きな問題もなく終えることができました。
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古今伝授の里と東常緑氏郡上 活動報告

令和3年11月7日(日)は、大変素晴らしい秋晴れの一日になりました。
令和3年10月22日に応募を締め切りましたが、60名を超える方々から応募いただきました、コロナ対策で35名を目途に抽選を行いました、抽選に漏れた方々には大変申し訳なく思いながら、一般35名とスタッフ6名41名で行うこととしました。

8時15分にJR岐阜駅団体バス乗降場を無事出発することが出来ました、国道156線にて北上して、郡上八幡城麓に到着、ここからは徒歩にて城を目指しました。

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皆さん元気に登城して頂きました、山頂は紅葉が始まり大変きれいでした。郡上藩の領地には越前に飛び地が多くあることに気づきました。青山氏藩主の領地は、郡上157ケ村に合わせて、大野郡72ケ村を若猪代官所が管理して、丹生郡11ケ村南条郡5ケ村を千福代官所が管理していました。

11時に郡上八幡城を出発して、古今伝授の里に向かいました。11時30分に古今伝授に到着して、まず妙見神社に向かいました明建神社は13世紀の初め東胤行が下総國(現在の千葉県)から入治したときに千葉氏の氏神である。妙見大菩薩を下総國から、剣の阿千葉氏の南の地に勧請して東氏の氏神としました。
後に城を篠脇山に移した際、神社も現在の所に移しました、天文10年(1541年)東氏は八幡赤谷山へ城を移しましたが、氏神はこの地に置いたままでした。東氏の跡を継いだ遠藤氏も氏神として尊信しました。

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明治維新の時神仏混交が禁じられたので、祭神を国常立尊と改め、神社名も健在の「明健神社」と改めました。しかし神社の変更は表向きで、ご神体は現在も「妙見大菩薩」です。
古今伝授フィールドミュージアムではコロナ対策で説明を受けること出来ませんでした。各自で見学しました。
昔の人たちは、自然との闘いは大変なものでした、猪との戦いですが、猪垣を作り猪避けてきました、東氏の館にも現在も残っていました。
篠脇城跡も見てまいりました。

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篠脇城(しのわきじょう)
岐阜県郡上市大和町にかつて存在した日本の城(山城)。現在は岐阜県指定史跡になっている
この地域一帯を支配していた東氏が8代・約230年間にわたって居城とした。栗巣川左岸の標高約523メートルの篠脇山山頂にあり、北は牛道郷(現・郡上市白鳥町)、北東は寒水(現・同市明宝)、東は小駄良(現・同市八幡町)にそれぞれ通じ、西方2キロメートル弱に長良川がある要衝だった。北側の麓には東氏館跡庭園がある。
『大和村史』によれば初代・東胤行の晩年に築城が始まり、14世紀前半の四代・東氏村のとき本格的に城が完成して移住したとされる。1468年(応仁2年)には斎藤妙椿に攻められて落城した、関東に在陣していた東常縁がこれを伝え聞いて詠んだ歌が妙椿に伝わり、贈歌10首と引換えに城を返還した、と『鎌倉大草紙』にはある。1471年(文明3年)から1477年(文明9年)にかけて、宗祇が篠脇城に常縁を訪ねて古今伝授を受けている。
1540年(天文9年)に越前国から朝倉氏が来攻したが、城主・東常慶の指揮の下、放射状竪堀から巨石を投下し、撃退したといわれている。しかし、これによって城自体の破損が著しく、翌1541年に朝倉氏の再来攻の際は、油坂峠で迎撃している。常慶は篠脇城を修復せず、同年に八幡(現・八幡町)の赤谷山に築城して移転し、篠脇城は廃城となった。
後に遠藤氏が東氏の後を継ぎ、郡上八幡城を本拠としている。
年不詳の『篠脇城跡略図』によると、麓の東西に土井(土居)、中央に門口、東方に矢場、西方には馬場があったとされる。土井囲の中には東氏の館があった。現在は山麓の登り口に表門跡とされる礎石がある。山頂の三段の平地のうち最上段が本丸跡と推定される。城郭を囲む放射線状の30本余の竪堀がこの城の特徴で、臼の目堀ともよばれる。ほとんどは現状の深さ2-3メートル、底幅2メートル、長さ10-40メートルで、その内2本が山麓まで達する。前述のとおり、この防御施設によって朝倉氏の来攻を撃退している。二の丸の西北に湧水があり、城の飲料水だったと考えられる。
現在岐阜県によって発掘調査が行われています。

16時に古今伝授の里をあとにして、帰路につきました岐阜駅には少し遅れて16時に無事到着することが出来ました、ケガもなく無事に帰ることが出来大変良かったです、これひとえに「長良川流域環境ネットワーク協議会」の助成のお陰と感謝しています、有難うございました。
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納涼台周辺の環境美化活動 活動報告

令和3年4月3日(土)に納涼台周辺の環境美化活動を行いました。

5月の鵜飼開き前に納涼台下を清掃して、コロナ禍でも観光客の皆さんに少しでも気持ちよく鵜飼いを観覧していただくために実施しています。

今年度は、長良川文化フォーラムから4名、一般参加者3名で実施しました。

今年は、例年より多少ごみは少なく思いましたが、樹木にひかかっているビニル等は多く感じました。
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長年納涼台の美化を15年以上叫び続けてきました、長良川文化フォーラムの会員の川瀬健一様が7月3日午前2時に死去されました、冥福を祈りします。

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わが町発見「お紅の渡しと東山道」 活動報告

令和3年5月28日(金)に実施ました。参加者はスタッフ5名、一般14名でした。大変天候に恵まれて、少し暑いくらいでした9時30分に岐阜駅より岐阜バスにて鏡島弘法に到着、まず論田川の説明この川は今は人工河川で、現在の鏡島大橋の南詰に大きな菖蒲池があり、それが源でしたが、鏡島大橋建設のためにとりつぶしになり、水源が亡くなりましたので、現在は井戸を掘って水源にしています。

鏡島弘法

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行基菩薩が開基され弘法大師が開山
天平10年(738年)行基菩薩が孤島であった「乙津島」に着船され、十一面観音像を彫り草庵に安置されたのが、この寺の始まりと伝えられています。
弘仁4年(813年)創建介山である弘法大師(空海上人)が乙津島に着船されました。弘法大師は秘法を尽くし、ひたすら願う事37日間、法鏡を龍神に手向けられますと、たちまち蒼海が桑田となりました。この縁によって、この地は鏡島といわれ、この寺は鎮守乙神(乙津島にいた神の名)に由来して乙津寺と名付けられたとされています。
嵯峨天皇の勅命により、弘法大師は七堂伽藍、塔頭五ケ寺、鎮守などをわずか3年で造営され、自ら弘法大師像を彫られました。そして、御堂の前に「梅の杖」を立てて、こういわれたのです。「仏法はこの地に栄えれば、この杖に枝葉が栄えるだろう」すると、不思議なことにこの梅の杖に、たちまち枝が出て葉がなったのです。このことから、乙津寺は梅寺とも知られるようになりました。

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鏡島城主が臨済宗妙心寺派として再興
中世、乙津寺は洪水などの災害や戦乱より、衰退の危機にありました。しかし、天文14年(1549)に鏡島城主であった石川駿河守光清が伽藍を再興します。さらに、京都妙心寺から無相大師十世にあたる孤岫宗峻禅師(勅諡大円霊光禅師)を招き、禅密兼学の道場としたことから、以後は臨済宗妙心寺派となります。
今も寺の門前近くに、石川駿河守光清の墓(五輪塔)があります。この五輪塔の両脇にある墓石には天文23年(1554)の年号が刻まれています。岐阜県最古の墓石= 天文9年(1540)に長良川の洪水で荒廃した乙津寺を、天文14年(1545)に復興させたのが鏡島城主の石川駿河守光清です。門前にある石川家先祖代々墓の五輪塔は、岐阜県最古級の墓であるとされています。
11時に鏡島弘法を出て、鏡島湊あとへ行き、みんなと記念撮影しました。

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鏡島湊とは、鏡島湊は長良川を利用した舟運の湊として、豊臣秀吉の政権以前から栄えていました。位置は、岐阜町近くで分流した長良川が再び合流する地点のすぐ川下にありました。天正20年(1592)岐阜城主織田秀信は鏡島の(馬渕)与左衛門に、新町を造る事を命じ、ここ以外での船荷の陸揚げを禁じました。分流し水量が少なく川瀬の関係で荷を積んだ船がそれ以上さかのぼるのがむずかしく、長良川と伊勢湾を結ぶ商品流通の重要な要となっていたことから、岐阜城下町の外湊として、自らの支配下にしようとしたのです。
鏡島湊の権益は、関ケ原戦い(1600)後、加納藩が成立してからも認められました。鏡島を通る東西の街道が中山道として公道化すると交通量が大幅に増し、渡船の利用者も増加、街並みは長く伸び発展しました。
しかし、加納藩にとっては、鏡島湊経由の輸送はかえって不便で、城主や家臣用の薪炭などが川下の長良川から荒田川に入って城下近くで荷揚げされるようになりましたが、鏡島湊の特権は、完全にくずされることがなく江戸時代を通じて守られました。湊は明治維新後も継続されていましたが、東海道線の開通や道路整備などで陸上交通が発達し、明治時代の後半になると、その役割を終えました。

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11時に川上に向かい、お紅の渡し場へ行き、旗を振り船頭を呼び3班んに分かれて渡船しました。


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長良川左岸堤防で楽しくのどかな中昼食にしました。
12時40分に長良川右岸を後にして曽我屋に向かい、歩き出しましたが午後は大変日差しが強くなり、大変暑くなりました厳しかったです。

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小紅の渡しの由来
名前の由来は、いくつかあります。
1.お紅という女船頭がいたから
2.紅を採る草が生えていたから
3.対岸から嫁入りに来たとき、川面に顔を映し、紅を刺したから

小紅の渡しの歴史
徳川家康の長女亀姫が加納藩に嫁ぎ、その子が支領である文殊城に入り、加納藩との行き来が劇的に増加し、渡船が始まったのではないかとされており400年近く続いています。
13時30分に、熱い中何とか曽我屋1丁目15-1に何とかたどり着くことが出来ました。

曽我屋横小提
横手堤は、又丸、川部と曽我屋との堺である。その長さは247間5寸(約449.06m)で高さは2尺8寸(約0.85m)である。この堤は、大雨で根尾川・板屋川の水が流れてきた時、大水をくい止めるために天明年間(1781~1788)に曽我屋の人々が周りの土を盛り上げて築いたものである。以後、出水のたびに又丸、川部、曽我屋の人々は対立した。横手堤に張るのは、むしろ1枚だけを竹のくしで押さえることが許されました。出水時、この堤の周りで血走った目でにらみ会った地域の人々が多数いた。

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安政6年(1859)板屋川の築堤で、やっと横手堤をめぐる対立が解消した。
14時40分やっと、東山道に到着しましたが、暑さのため多くの人々はバテ気味で、若江神社に行くのは中止して、川部のバス停から帰路につきました。






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