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2021年7月

納涼台周辺の環境美化活動 活動報告

令和3年4月3日(土)に納涼台周辺の環境美化活動を行いました。

5月の鵜飼開き前に納涼台下を清掃して、コロナ禍でも観光客の皆さんに少しでも気持ちよく鵜飼いを観覧していただくために実施しています。

今年度は、長良川文化フォーラムから4名、一般参加者3名で実施しました。

今年は、例年より多少ごみは少なく思いましたが、樹木にひかかっているビニル等は多く感じました。
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長年納涼台の美化を15年以上叫び続けてきました、長良川文化フォーラムの会員の川瀬健一様が7月3日午前2時に死去されました、冥福を祈りします。

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わが町発見「お紅の渡しと東山道」 活動報告

令和3年5月28日(金)に実施ました。参加者はスタッフ5名、一般14名でした。大変天候に恵まれて、少し暑いくらいでした9時30分に岐阜駅より岐阜バスにて鏡島弘法に到着、まず論田川の説明この川は今は人工河川で、現在の鏡島大橋の南詰に大きな菖蒲池があり、それが源でしたが、鏡島大橋建設のためにとりつぶしになり、水源が亡くなりましたので、現在は井戸を掘って水源にしています。

鏡島弘法

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行基菩薩が開基され弘法大師が開山
天平10年(738年)行基菩薩が孤島であった「乙津島」に着船され、十一面観音像を彫り草庵に安置されたのが、この寺の始まりと伝えられています。
弘仁4年(813年)創建介山である弘法大師(空海上人)が乙津島に着船されました。弘法大師は秘法を尽くし、ひたすら願う事37日間、法鏡を龍神に手向けられますと、たちまち蒼海が桑田となりました。この縁によって、この地は鏡島といわれ、この寺は鎮守乙神(乙津島にいた神の名)に由来して乙津寺と名付けられたとされています。
嵯峨天皇の勅命により、弘法大師は七堂伽藍、塔頭五ケ寺、鎮守などをわずか3年で造営され、自ら弘法大師像を彫られました。そして、御堂の前に「梅の杖」を立てて、こういわれたのです。「仏法はこの地に栄えれば、この杖に枝葉が栄えるだろう」すると、不思議なことにこの梅の杖に、たちまち枝が出て葉がなったのです。このことから、乙津寺は梅寺とも知られるようになりました。

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鏡島城主が臨済宗妙心寺派として再興
中世、乙津寺は洪水などの災害や戦乱より、衰退の危機にありました。しかし、天文14年(1549)に鏡島城主であった石川駿河守光清が伽藍を再興します。さらに、京都妙心寺から無相大師十世にあたる孤岫宗峻禅師(勅諡大円霊光禅師)を招き、禅密兼学の道場としたことから、以後は臨済宗妙心寺派となります。
今も寺の門前近くに、石川駿河守光清の墓(五輪塔)があります。この五輪塔の両脇にある墓石には天文23年(1554)の年号が刻まれています。岐阜県最古の墓石= 天文9年(1540)に長良川の洪水で荒廃した乙津寺を、天文14年(1545)に復興させたのが鏡島城主の石川駿河守光清です。門前にある石川家先祖代々墓の五輪塔は、岐阜県最古級の墓であるとされています。
11時に鏡島弘法を出て、鏡島湊あとへ行き、みんなと記念撮影しました。

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鏡島湊とは、鏡島湊は長良川を利用した舟運の湊として、豊臣秀吉の政権以前から栄えていました。位置は、岐阜町近くで分流した長良川が再び合流する地点のすぐ川下にありました。天正20年(1592)岐阜城主織田秀信は鏡島の(馬渕)与左衛門に、新町を造る事を命じ、ここ以外での船荷の陸揚げを禁じました。分流し水量が少なく川瀬の関係で荷を積んだ船がそれ以上さかのぼるのがむずかしく、長良川と伊勢湾を結ぶ商品流通の重要な要となっていたことから、岐阜城下町の外湊として、自らの支配下にしようとしたのです。
鏡島湊の権益は、関ケ原戦い(1600)後、加納藩が成立してからも認められました。鏡島を通る東西の街道が中山道として公道化すると交通量が大幅に増し、渡船の利用者も増加、街並みは長く伸び発展しました。
しかし、加納藩にとっては、鏡島湊経由の輸送はかえって不便で、城主や家臣用の薪炭などが川下の長良川から荒田川に入って城下近くで荷揚げされるようになりましたが、鏡島湊の特権は、完全にくずされることがなく江戸時代を通じて守られました。湊は明治維新後も継続されていましたが、東海道線の開通や道路整備などで陸上交通が発達し、明治時代の後半になると、その役割を終えました。

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11時に川上に向かい、お紅の渡し場へ行き、旗を振り船頭を呼び3班んに分かれて渡船しました。


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長良川左岸堤防で楽しくのどかな中昼食にしました。
12時40分に長良川右岸を後にして曽我屋に向かい、歩き出しましたが午後は大変日差しが強くなり、大変暑くなりました厳しかったです。

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小紅の渡しの由来
名前の由来は、いくつかあります。
1.お紅という女船頭がいたから
2.紅を採る草が生えていたから
3.対岸から嫁入りに来たとき、川面に顔を映し、紅を刺したから

小紅の渡しの歴史
徳川家康の長女亀姫が加納藩に嫁ぎ、その子が支領である文殊城に入り、加納藩との行き来が劇的に増加し、渡船が始まったのではないかとされており400年近く続いています。
13時30分に、熱い中何とか曽我屋1丁目15-1に何とかたどり着くことが出来ました。

曽我屋横小提
横手堤は、又丸、川部と曽我屋との堺である。その長さは247間5寸(約449.06m)で高さは2尺8寸(約0.85m)である。この堤は、大雨で根尾川・板屋川の水が流れてきた時、大水をくい止めるために天明年間(1781~1788)に曽我屋の人々が周りの土を盛り上げて築いたものである。以後、出水のたびに又丸、川部、曽我屋の人々は対立した。横手堤に張るのは、むしろ1枚だけを竹のくしで押さえることが許されました。出水時、この堤の周りで血走った目でにらみ会った地域の人々が多数いた。

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安政6年(1859)板屋川の築堤で、やっと横手堤をめぐる対立が解消した。
14時40分やっと、東山道に到着しましたが、暑さのため多くの人々はバテ気味で、若江神社に行くのは中止して、川部のバス停から帰路につきました。






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